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短期連載「 結局、戦国最強は誰か 武田信玄 」

2018/07/14

人事ブログ 武田信玄

はじめに

 今回から3回にかけて労務管理に関しておもしろいテーマで書いてみようと思い立ちました。

“戦国時代における最強は誰か?”というテーマの下、戦国時代の人事を基本に、そこへの分析や考察といったアプローチをしながらブログを書いてみることに挑戦してみます。

おもしろいとは言いましても、結構真剣に書籍や資料をしながらあたり、力を入れて書いて行きたいと思います、はい。

“最強”に関しては、

・主従の信頼関係                (信頼)

・人を動かす力                 (動員)

・人材登用をする先見力ならびに意思決定の勇気  (決断)

これらからくる軍団の強さ、そして、こうした観点における“人事的な最強”を、計3回シリーズに渡って連載してみたいと思います。皆さんからのコメントもお待ちしております。どうぞよろしく。

 

 

戦国最強は誰(どこ)ぞや?

 

では早速ですが、皆さんが思う戦国時代での最強と言ったら誰ですか?

おっと! このような聞き方をしてしまいますと、個人の武力に話が及んでしまいがちで、「立花道雪か島左近じゃないか、いやいや弁慶だろう」というだろう、もはや歴史的な時間も時空も超えたチャンバラ的な話に陥ってしまいます。

そこで、「皆さんが思う戦国時代の軍団で最強だったのはどこでしょう?」

こちらの聞き方の方が良いかもしれませんね。

 

くどいようですが、“最強”の説明をもう一度しておきましょう。

せっかくなので、現代会社組織になぞらえますと、単なる武術力(組織構成員の個人の力)頼みのものではなく、

 

一、企業トップの人望と企業全体の魅力(カリスマ性)        (信頼)

一、家臣団(組織構成員 ステークホルダーを含むこともある)を統治する力  (動員)

一、作戦の立案力と遂行力(将来予想を根拠立てて行える力、実行する手配力) (決断)

 

事業経営を行っていくのに重要な構成要素の集合体でありまして、これらが混ざり合った結果として、最強の軍団を形成するのに至るのであります。

 

ズバリ!強さいとは、複合的に各要素が混じりあい、かつそれが外部環境にタイミングよく発信できたときに示されるものなのでしょうね。

 

やっぱり武田信玄とその軍団でしょう!

 

 

 

好き嫌いはともかくとして、飯田が最強と思えるのは、武田信玄とその軍団です。

いや、どちらかと言うと好きだな。近隣他国を攻めまくり、同盟を反故するようなこともしたこともあり、悪い奴という印象もありますが、時代事情も与しこれらは必然なことだったのかもしれません。ん、そう考えますと、我々の事業運営も大きな歴史の大河の流れで考えますと、多少の悪事も時に必要なのでしょうか。・・・いやいや、そうしてはならぬと歴史の偉人達や事件は諭していますよね。歴史を勉強し、やはり正攻法で大業を成し遂げたいものです。

 

歴史に「ifはない」という話はよく話題にあがるところではありますが、“もし、武田信玄が京へ上り詰めていたら日本の歴史はどうなっていたのだろう”なんて思いが馳せめぐります。(余談ですが、江戸時代(徳川家康)は武田の影響を色濃く引き継いでいるのですよ。武田家の活躍が描かれた『甲陽軍鑑』も江戸時代に入ってから書かれたものですしね。武田氏の脈は江戸時代も引き継がれたのです。それだけ与えた影響は大きかった。)

 

なんでも、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、武田信玄は「織田信長がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」なんて記述があるそうじゃないですか。天下をその掌中に治める寸前だった織田信長も、その後治めた徳川家康も、彼等二大天下人が真正面からの戦闘を避けていたのが武田信玄とその軍団です。対峙して戦うことになったら、これは相当厄介な相手だと。家康さんについて言えば、三方ヶ原で直接戦闘をした結果、あの有名な悔しい肖像画を描くことになったのは有名な話ですね。

 

 

この有名な甲州武田節 人材にかける並々ならぬ思いが伝わります。

ちなみに、人が城であると言い、天守閣に連想されるような城郭を持たなかったとされる武田信玄ですが、実際のところはかなり強固な築城術があり、それは徳川家康に引き継がれていくことになります。

 

さて、そろそろ本題に入っていくことにしましょう。

武田軍団の強さがどこから生まれてきたのか。まずは、そもそも軍団ができあがる前を見て行きましょう。

 

もともと甲斐は一枚岩の国ではなかったのです

甲斐の豪族は甲州金山による経済力もあり、甲斐守護大名の一括統治がなかなか実現せず、武田家も力が弱く、有力な豪族たちをまとめ上げることができていませんでした。経済資源を領内に所有していた中小企業(豪族)が各々独自支配圏内を形成しているようなものです。金山を持っていれば、それは強い。

 

信玄の父、信虎(後に信玄によって駿府に追放されてしまいますが、天寿を全うした人物)により、ようやくに甲斐にまとまりが出始めてきます。信玄の時代に武田最強軍団が完成したことは間違いないのですが、その礎は父が築いたのです。のです。バラバラだった豪族たちが武田家に一目置き、徐々に統治の兆しが見え始めます。そうした風向きの中、信玄は家臣団に祭り上げられながら家督を引き継ぐことになります。

 

しかしながら信玄が家督を継いだ後も、家臣団にまとまりが生まれず苦悩したと言われています。実はこの信玄の家督相続そのものが、武田家に難色を示していた豪族が「息子は力が無いから、うるさい信虎を追い出し代替わりさせてしまえば、また自分たちの思うようにできるぞ」といった根端によるものだと言われています。

武田軍団は戦国最強の軍勢と言われますが、信玄の若い頃はなかなか家臣団の統率が取れずに苦労していた時期があり、次のような彼の手紙が残されています。

「すべてが思うように行かない」(信玄)

同じような思いをされている中小企業の社長同様、信玄も悩んでいたのです。

これから息子や娘への事業承継を予定されている企業も多いのではないでしょうか。

父の代では尽力してくれた社員が、いざ自分の代になったら思うように動いてくれないばかりか、何かと先代と比較されてしまって、とてもやりづらい。。もしかしたら、父の引退自体を推進し、社員が政権を取りやすように謀ったのではないか。

 

さて、第1回目はここまで。

次回は、どうやってまとまりを作り最強軍団を作っていったのか にクローズアップしていきたいと思います。